今まで本が嫌いだと思っていたがそうではなかった話

かつての本嫌いの今

(注意:ここで述べる「本」には漫画のことは含まれていない。漫画は昔から好きだし今も好きだ。愛読漫画はトライガン・マキシマムだ。)

昔は本が嫌いだった。読書感想文はいつも適当な(雑な)ことを書いていたし、親から渡された本も自分からは全く読もうとはしなかった。本を読まないことが知識・教養・雑学の獲得の障壁になることは理解していた上で読もうとはしなかった。

最近東京駅周辺に寄ることが多いのだが、暇つぶしに周囲を歩く際は丸の内オアゾに寄ることがささやかな楽しみである。本という文脈からお察しの方もいるだろうが、1F-4Fを貫く丸善が目当てだ。入店すると1F入り口の左側にあるエスカレーターで一気に4Fまで登る。目的はその4Fにある洋書エリアだ。

そこそこの海外居住経験があるため、英語圏の人並みに英文は読めるつもりでいる。というか仕事で日常的に英語を読み書き(type)話し聞きしていたこともあるので専門書でもなければ一通りは読める。

手にとって中身を軽く読んでみたり、面白そうだと思ったら買っていく。英語の本であることを除けば、日本のみんなが本屋でやっていそうなことをしているわけだ。英語の本を好むのは、表紙デザインの面白さや本の大きさがそれぞれ違っていて見ているだけで楽しいからだ。洋書エリアは一つの画展と言ってもよい。YouTubeのサムネと一緒で、楽しそうなものから手を取ることに何の罪があろうか。だが本が嫌いだった人間がこんなことをするものだろうか?というか、自分が本嫌いであったことをつい最近思い出したのである。

あの頃と昨今の違いはなにか

本そのものになにか大きな変化があったとはあまり考えていない。敢えて言うなら、日本語の本の表紙や帯が以前より鬱陶しくなったような気はしている。中身にもしかしたら変化があるのかも知れないが、本が嫌いだった頃は中身を軽くパラパラと読んでみることすらしなかったので比べても仕方がないことだろう。すると変化があったのは自分のほうと考えるのが自然だ。

今の自分が好んで読むのは、総じて「何かしらの知識が得られるもの」に限られると言ってよい。文芸の類には全く手を伸ばさない。この傾向は最も古い記憶では高校生の頃からだ。父が使っていた古い数学の参考書(「関数」という語がすべて「函数」と書かれていた)を「おもしれー」と言いながら読みつつ問題に挑戦していたものだ。もっとも、参考書というか問題集であるから読書の文脈からは外しておこう。

最近はカーネギーの「道は開ける」であるとか、James Bloodworthの"HIRED"とか上野千鶴子の「情報生産者になる」とかを読んだりした。だが昔と比べて本の消費の仕方が異なっていた。メモというか「自分用まとめ」を作りながら読むようになったのが昔と比べて決定的に違うようだ。

例えばカーネギーの「道は開ける」を読んだときのまとめを貼ってみる。

要約だ。それも「~とのことだ」とか「と言っている」を使った、かなり他人事感のある軽い要約である。これをするようになったきっかけは「本の内容は一回読んだだけじゃそんなに覚えられない」ことに気づいたからだ。それなら覚えるまで読み直せば良い…と言いたいところだが、自分は飽き性だ。中身が全く同じ何百ページを何回も読めと言われてもどだい無理な話である。飽きたことをするくらいなら、他のことをやってしまう。だから「これは大事だ」と思ったところを自分で切り抜いて、サッと短時間で読み返せるようにまとめることにした。

まとめることの効能

ここまでは「まとめを作る」という知識のショートカットのおかげで読書が捗るようになったかのように読めるが、自分の中での答えはそうではない。「まとめが完成して、それを読み返すこと」よりも「まとめを作る行為」そのものに強烈な楽しみを覚えているからだ。本やスマホ電子書籍)の隣にもう一台お古のスマホBluetoothキーボードを用意して、読みながらすぐにお古のスマホにまとめを吐き出す行為が凄まじく楽しいのである。ぶっちゃけやっていることは二次創作(まとめを創作と呼ぶのかはともかく)にすぎないのだが、原典にある雑多な情報を捨てて核心の情報だけを抜き取り、自分風にちょっとした味付けをして形に残す。これがなかなかどうして楽しくて仕方がない。

上記の一段落でお分かりと思う。原典にとってはスゴイ・シツレイな話だが、この「自分向けの二次創作を作ることが楽しいから本を読むようになった」のである。読書はあくまで楽しさの原材料にすぎないのだが、それをエンターテインメントとして昇華することを覚えたので楽しくなったのである。楽しいことならいくらでも続けられる。そしてこの世に本は無限にあるので飽きることはきっとこの先無いのだろう。

最近まではできなかった理由

「昔から紙に書き出して自分なりにまとめていれば楽しい読書ライフを幼少期から送れていたのでは?」と思わないでもないが、小学校や中学校の頃にはそれができなかった理由がある。

第一に、相対的に書くスピードが遅かったからだ。「相対的」というのは、他の皆と比べて書くスピードが遅かったのではない。タイピングより遅いから億劫だったのだ。自分が海外にいたのはGoogleが産声を上げる数年前あたりで、半導体製造に関わっていた父のおかげで家にiMacがあった。クリアグリーンのブラウン管テレビみたいなやつである。小学校の低学年の頃からキーボードに触れていたため、タイピングの速度には自信がある。少なくとも手書きよりはずっと早い。(読み返すつもりがなくても)読めるような字を書くことに注意したり、「ゆううつの『うつ』が書けない…ひらがなで書くのは負けた気がする…」と考えたり。手書きがもたらすオーバーヘッドやボトルネックに耐えられなかったので紙に書く選択肢はどうしても取りたくなかった。

そこそこ早いよねこれ?

 

第二に、メモがユビキタスではなかった。どこにいても同じメモにアクセスできて、自然災害に遭っても残り続けるメモなどなかった。クラウドで保存できるメモというものは2000年代後半くらいまではなかったと思う。

第三に、気軽に持ち運べるキーボードがなかった。自分の中で最速の情報出力方法であるキーボードにこだわりたいが、持ち運ぶのは流石に憚られるものだった。ワイヤレスキーボードの技術自体はちょい前からあるものだが、それが折り畳めるレベルの話になると7-8年前あたりからの話ではないかと思う。

この3つが揃ったことでようやく読書を楽しむに至るようになったのである。

結局、本は嫌いだったのか?

冒頭の「本が嫌いであった」ことに振り返ると、本そのものに嫌われる謂れがあったわけではなかったのだ。自分に向いた楽しみ方が最近まで実現できなかっただけのことである。しかし自分のような―読んで自分なりにアウトプットするのが好きなくせに、手書きの遅さでは我慢できない、キーボードを持ち運ぶわけにもいかなかった―人間は過去にもいたはずで、そういった人物が本が嫌いなままこの世を去っていったのだろうかと考えると、何かやるせない気持ちにもなる。

せめて自分はそうならなかったという幸運をしっかりと握りしめておこうと思った。